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2008年10月14日 (火)

次第に明らかにされる:家系図

今日、時計店のおじさんが来店された。 K18フレームに遠用メガネを、ブルガリのアルミニウムフレームに老眼鏡を作った。 土地の構想やら、流れの分かった範囲を話すと・・・ もっと詳しく教えてくれながら、今度それらを表した家系図を持参いただく事にした。 複写製本し、数十年の間、付けくわえしていない縁組の全ても記載して、正式な業者にて確認&裏付けをとり、家系図として残す事にする (^^♪

濱田潘[はまだはん]では無く、後の鶴田潘 [ たつたはん ] だった m(._.)m 苗字帯刀御免/庄格屋と称され、参勤交代に出た。 ルーツを遡れば美濃の出で源氏だった。 分かったのは佐々木盛継からのウンヌンだが・・・ 播州赤穂城とも姻戚関係~津山打穴に入る。 打穴は松平の天領 ( 直轄の地 ) であった。 濱田潘が、倒幕の動きをした薩摩 ・ 長州に敗れた時に、松平系列だった濱田潘を受け入れ助けた。 酒蔵を作り鶴田潘としてつかえた。 今村家には松平から嫁が来ており、又、中山神社 ( 松平 ) からも嫁を受け入れていた。 従って松平縁故関係だった中で子孫に女系系列が多く、嫁いで行き苗字が変わったり養子縁組にての家系継続を経た中、男子直系で残っているのが今村通孝だけになった。  

51ibtpifzpl__ss500__2 山田方谷 ( やまだほうこく ) と共に和気閑谷 ( 日本初 ) 学校の教授として通う道中、落合の井出家、打穴の今村家、柵原の直原家を泊まりながら通い、直原 ・ 本島家とも縁故となる。 幕府財政危機に陥ったおり、岡山県高梁市 ・ 備中高松城立て直しなどの業績を得て、宮中 ( きゅうちゅう ) 受け入れ指名までもあったが、師弟を育てたい願いの元、現地に残り、和気シズタニに通った。 その当時の掛け軸や書物も多々残っている。 地域名詞は、大庄屋 ・ 庄屋などと称された中、当家は松平縁故もあり 【 苗字帯刀御免 】 と、言う特別役を松平より受け、苗字を持ち、刀を持ち、学問に取り組んだと言う。        ● 山田方谷                    http://yamadahoukoku.com/                                 ● 和気閑谷  http://www.culture.co.jp/bizen/sizutani/sizutani.html  

打穴に代々墓を作った後、男兄弟 ( 長男、本家は酒造 : 西今町 / 次男、時計店 : 西今町 / 三男、株式会社メガネ金楊堂 : 二階町 ) は、両親 ( 父弥太郎 & 妻 : 三丁目 ) と共に津山に出て来、安国寺にそれぞれの兄弟筆頭名での代々墓を新たに作った。 以後弥太郎亡き後、本家本元の場所に今村家代々墓として、古い墓をまとめた。 代書屋として桑村に出た今村系と津山に出た今村系は同系列だ。 ここで言えるのは、弥太郎以前の代々墓として血縁関係者により、墓参りをされていた為、嫁ぎ先、またはその息子 ・ 娘により ( 嫁ぎ先の苗字に変わりながらも、母方の里墓として ) 墓参りをされていた。 前記したが、養子関係無く、【 男子 】 直系の末裔としては私、通孝~友哉 ・ 公彦、のみとなる。 同地域 ( 打穴 ) でも他の地域 ( 柵原 ) でも今村姓があるが、当今村家とは全く関係無い。 

とんとん拍子に進む土地購入話しやら、家系図が本家 ・ 時計店 ( 両養子さん家庭 ) が持っていた事から・・・ 今村家のルーツが明確にされた。 今、明らかにされていなかったなら、家系図もルーツも知らされ無いまま見過ごされていたに違いない。 『 矢が向けられたんだ 』 と、言われたが、任務の重さも感じ始めた。 過去、嫁ぎ先の子の嫁などが墓を参って下さっていた事にも感謝 & 敬服する。

全員に連絡不可能と判断し、直系が墓守り代表となればいい。 墓守り ⇔ 墓参りを間違えてはならない。 今まで私が墓に行って無かったが故、来られた方々全てに対して守ってくれたと判断 ( 今まで墓守りと書いていたが ) したが、その方々は代々墓を作ったのが誰かも知らず、解らないまま墓参りして下さっていた。 今でこそ安国寺檀家に登録し、拝んでいただきながら、私は墓守りとなるべきだ。 墓参りに来られる方々には感謝とお礼で頭を下げればいいのでは無いかな? これからも燈籠移動や外壁修理をしても、誰が? と、思われながらも本家本元直系がしていると判断していただければ幸だ。

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