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2018年10月11日 (木)

まな板の鯉・腐っても鯛、出家の身、「 念・気 」 を抑えて、冷静さを保とう・・・

小雨の中を原チャリで、津山中央病院に行き、様態を聞き、退院の手続きを済ませた。 予約していた介護タクシーが来たので、今から母を車椅子に座らせ、介護タクシーで施設まで送るが、渡す薬・書類、貰う書類などがあるので、私も介護タクシー ( 母 ) とともに原チャリで施設に移動する事にした。 施設の次長が出迎えてくださり、丁寧な説明を聞き、施設内での記録を渡してくださった。 丁度その時に、某所の担当から電話が掛かった。 今の処内容は書かないが、津山第一病院の医療ミスに対する考察とでも言うか、内容を時系列で箇条書きに書く時期が来たら明確に記載し、記録として残してもいいが ←↑↓→ といい勉強になった。 厚生労働省、岡山県庁、津山市役所、津山保険所、津山警察署、弁護士よりも総合的な知識は高くなったと判断する。 そんな勉強なんてしたくもないわ ┐('~`;)┌

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頭をクリーンにしたかったので、瓜生原・日上からすぐに国道・県道・旧道に出て通るのを避け、普段誰も通らない河川敷堤防道路の草むらの中を走った。 「 ゴミ捨て禁止/ゴミを捨てた人は、懲役又は罰金に処せられます。 津山警察署・岡山県・津山市 」 の立て看板があったが、防止対策の為に立てているだけで、懲役も罰金も処せないように思え、頭をクリーンにしたかったのに、世の中の矛盾をこんな所でも感じた。 気にせまいと、雨の中、柿木や実を撮影したり、舗装されていない草ぼうぼうの河川敷堤防凸凹道を走り、河川に生息する鵜の群れなんかを撮影し、世の中の矛盾のモヤモヤを無理やりにでも脳裏から消し去ろうと努力した。 ってのは、おとなしくはしているが、元々は誰も手のつけれないほどの見境無くなる暴れん坊だ。 怒った時の自分が怖い。 「 鎮静剤を撃たれておとなしくしている狂犬病のようなもんだ。 」 と帰宅した時に相棒に話すと 「 野生のゴリラ 」 と言われた。 `;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!! なんじゃそりゃ (@_@; ま、キングコングが暴れだすと、誰も手が着けれなくなるからなぁ・・・ギャハハ

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///////////  加茂川から吉井側に合流する前東津山の河川敷に 「 千人塚 」 がある。 ///////////

先日《 待っていた BMW 納車日なので、駆け足で時系列記録を記載 (^。^)y-.。o○ ( ← クリックで見れる )》 通った時にはここまで 「 千人塚 」 について詳しく書いていなかったので今回下記する。 また、《 津山・高倉神社に立ち寄ってみた ( ← クリックで見れる )》 も見ると、「 高倉百姓一揆 = 元禄一揆 」 によっての関連が解る。 この歳になって初めて知る事も多いなぁι(´Д`υ)アセアセ

高倉百姓一揆 > 元禄8年 ( 1695 ) から10年まで領民の7%が餓死するほどの大凶作が続いていた。 「 このままでは、餓死する者が続出する。 農民を見殺しにするわけにはゆかぬ。 強訴するほかあるまい 」 と決心したのは高倉村の堀内三郎右衛門であった。 近郷の大庄屋の中で、ただ一人であったが、文禄11年11月11日高倉一揆をおこし、津山城をめざして城下に押し入ったが、指導者全員が捕えられ、元禄12年3月27日に一門8人をはじめとして兼田河原で斬首となった。 農民の窮状を救おうと、命をかけて強訴におよんだ指導者8人の霊もいわゆる千人塚で供養回向されているのは勿論である。

供養塔 > 川辺村は、加茂川の東側に位置している。兼田橋を東に渡りきった所に等身大の石地蔵がある。 台座の正面中央に大きく 「 供養塔 」 と、これを挟んで 「 光明真言 」 と 「 三百邁遍 」 と刻まれている。 向かって右側面には 「 文政十丁亥年五月良辰建焉 」 左側には 「 施主玉置光 」 とある。 堺町の美濃出屋玉置が処刑者供養のため、文政10年 ( 1827年 ) に建立したものである。 国道53号線の開通に併って道路の改修がなされた際に、現在位置に移されたものである。 河川の流れ方にも変遷があったが、現在も東側に河原がある。 川辺河原でも出雲街道に近い位置が刑場になっていたものと考えられる。

大正時代の -千人塚- > 江戸時代に創建された千人塚は、その後長い間無縁の塚として訪れる人もなく弔う人もなく唯荒廃に委して見る影もなくなっていたが、大正5年10月30日、川崎の鈴木茂市氏の発起により各宗の僧侶と協力して一大供養を営んだ。 その費用約200円は有志の寄付金によったが、鈴木氏がその過半を負担した。 三界に迷う霊の碑であるが、参拝者は数千人に達したとある。 参加した寺院は次の22寺院である。 泰安寺・本願寺・地蔵院・高福寺・本行寺・長安寺・妙願寺・妙法寺・国分寺・大円寺・聖徳寺・長雲寺・福泉寺・光厳寺・長法寺・成道寺・宗永寺・安国寺・蓮光寺・萬福寺・浄円寺・七面堂。 大正15年3月因美線敷設工事に土砂採取中、兼田処刑場跡より白骨がぞくぞく掘り出され、殆ど数えきれない数に達したため一時発掘を中止し、再び川崎の鈴木茂市氏が施主となって盛大な納骨式が行われ、参拝者は3,000人に達したという。 参加寺院は泰安寺・本行寺・高福寺・本行寺・妙勝寺、鈴木茂男さん宅には大正期の慰霊を物語る高さ74㎝の 「 三界萬霊十方至聖 」 と記した位牌が残っている。 茂男さんは 「 祖父は家でもずっと霊を慰めていた 」 と話していた。

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昭和時代 > 昭和20年 ( 1945 ) の水害で三界萬霊塔の碑は不明となったが後年河の中に埋まっているのを発見し、昭和56年碑を建て現在に至っている。 この工事は加茂川の改修工事にともない、兼田町内会の土居一会長、老人クラブ・福寿会の尾嶋熊太郎会長、井上明信市議等が協力して移転を要望し県津山振興局、吉井川漁業組合が協力して姫新線南側のもとの位置に近い堤防上に移転が実現した。 県が加茂川の改修工事を行うのに伴い千人塚も少し移動させることになり県費580万円でもとの位置から約20米は離れて姫新線沿いに建立し直された。 当時町内会・壮年会・老人会の役員住民等が多数の人骨の収集に協力した。 昭和56年から兼田子供会が中心になり毎年8月16日夜旧兼田橋上手の加茂川で灯籠流しを行った。 川面をゆれながら流れる幻想的な灯の帯に、亡き人を思いながら手を合わせる多くの人々の姿が見られた。

老人クラブ、福寿会の千人塚護持会 > 町内老人クラブによって千人塚護持会が結成され、千人塚及びその周辺の草取、清掃を年何回も行い維持、管理を行っている。 毎年春・秋の彼岸の供養・お盆の法要を行い、死者への霊を慰めて来た。 その時の様子が津山朝日新聞の記事 ( 昭和63年3月21日 ) には、「 この日は、午前9時から兼田橋南の加茂川沿いに建つ三界萬霊塔で、老人クラブ員・地区住民・来賓等約60人が参列し、林田の高福寺・明楽昇応住職を導師に供養が行われた。 参拝者らは読経の中次々に焼香しながら手を合わせ霊を慰めた 」 とある。

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